
今日のご紹介は上石原&下石原にある若宮八幡さまの横にある坂道のご紹介であります!坂の正式名称はいまいち良くわからなかったのですが、八幡様の門のところに"女坂"という記載があったので、たぶん女坂ではなかろうかと思われます。
そうです!つまりは先日紹介したイケメン坂の対局となる"美女坂"が調布にあったということになります。勝手にちょうふ通信として認定します!
この坂なんですけど、私としてはとても思い出深い坂なんですよね。元々私はこの坂の近くにある調布第五中学校の卒業生なんですが、習い事に行くために西調布駅にいくには必ずこの坂を上らなければいけなかったんです。

子供のころはこの坂が本当にきつい坂道に思えてまして、いかに助走をつけて坂道に入り、足をつかずに登りきるかっていうのに執念を燃やしておりました。登りきれたときは嬉しかったなあ。
下るときもいかに坂道のスピードを活かして家までローカロリーで帰れるかを考えてたんですが、いま思うととっても危なかったなと思うワケです、子供のころをしみじみと思い出しました。私にとっては一番思い出の深い坂であります。
しかし、この坂が一方通行だなんて、今回行って初めて知りました(笑)なんも知らないで走っていたようです。
坂を上り始めますと小さな川があるんですよね。子供のころからなんの川か気にはなってたんですが、今回調べてみた感じだと、どうも府中用水のようです。間違ってたらすみません。詳しい人いたら教えてください。

坂の半分くらいまで登っていきますと若宮八幡さまが見えてきます。
この若宮八幡様は近藤勇の生家の氏神様にあらせられます。仁徳天皇を祀る神社で、「武運長久」「勝負運」のご利益があるといわれています。新選組にもゆかりのある神社であります。
※サマージャンボ勝った人は参拝すると良いかもしれません

そうして坂を上っていくとこんな光景となっておりました。

うん!子供のころと比べたら簡単に自転車で坂を上れた!成長したのかな?でも平均寿命でみたらもう折り返しの年齢だしここから衰えてくんだろうなあ。
坂道を上ったことで、まさか人生を振り返ることになるとは思わなかったんですが、ほんと登ったり下ったりの人生でしたが、子供のころのキツイ坂を登り切って嬉しかった時の気持ちを忘れずに、残りの人生も大変な時でも登り切ればきっと嬉しい未来があるかもしれない!と考えて生きていこうと思いました。
本日の坂道のご紹介はここらへんでした
コメント
コメント一覧 (8)
普通は女坂と言うと女性でも登りやすい参道の事ですので、もっときつい男坂も有ったのかもしれませんね~。
現代の女坂は写真拝見すると切通しで登りやすいみたいですね。
地名と立地からして若宮八幡宮様の境内と境外の境目が川の河岸段丘面だったみたいですね~。
明治初期に作られた迅速測図を見ると江戸時代の地形が残ってますが、現在の真っ直ぐ上に登る道と、右手に登り神社裏手に回る道、左手に時計回りにグルッと回る道が有ったみたいです。
chofucity
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穴澤天神社は延喜式内社なので延喜年間の醍醐天皇に律令制の追加制度で保護された神社と言う格があるのですが、その一帯は古代から開けた場所なので製鉄技術や軍馬の生産が盛んだった地域なんです。
ですから国府祭(こうのまち)=くらやみ祭では旧武蔵国の神事で一之宮~六之宮が武蔵国総社の神様が大國魂神社に集合する神事を各神社の御神輿と古来の神馬奉納が祭事として残っていますよね。
chofucity
が
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そして若宮と言うのは、源頼朝公が鎌倉の鶴岡八幡宮を造営する前に、頼朝公の御先祖の源頼義公が当時は入江だった材木座に逗子市の鶴峯山八幡宮の御分霊を鶴岡八幡宮として勧進していたのを、平安京を模して鎌倉都市計画を再構築した際に小林岡に遷宮したのが現在の鶴岡八幡宮で、当時は若宮と別称で呼ばれていました。
ですから鶴岡八幡宮の前の参道は段蔓(だんかずら)の他に若宮大路と呼ばれています。
この事から、鎌倉時代以後に前身の祠(ほこら)規模の御社が作られたのかな?と社伝とは違う可能性も有ると思います。
chofucity
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そして若宮と言うのは、源頼朝公が鎌倉の鶴岡八幡宮を造営する前に、頼朝公の御先祖の源頼義公が当時は入江だった材木座に逗子市の鶴峯山八幡宮の御分霊を鶴岡八幡宮として勧進していたのを、平安京を模して鎌倉都市計画を再構築した際に小林岡に遷宮したのが現在の鶴岡八幡宮で、当時は若宮と別称で呼ばれていました。
ですから鶴岡八幡宮の前の参道は段蔓(だんかずら)の他に若宮大路と呼ばれています。
この事から、鎌倉時代以後に前身の祠(ほこら)規模の御社が作られたのかな?と社伝とは違う可能性も有ると思います。
chofucity
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そして若宮と言うのは、源頼朝公が鎌倉の鶴岡八幡宮を造営する前に、頼朝公の御先祖の源頼義公が当時は入江だった材木座に逗子市の鶴峯山八幡宮の御分霊を鶴岡八幡宮として勧進していたのを、平安京を模して鎌倉都市計画を再構築した際に小林岡に遷宮したのが現在の鶴岡八幡宮で、当時は若宮と別称で呼ばれていました。
ですから鶴岡八幡宮の前の参道は段蔓(だんかずら)の他に若宮大路と呼ばれています。
この事から、鎌倉時代以後に領主の鎌倉武士によって前身の祠(ほこら)規模の御社が作られたのかな?と社伝とは違う可能性も有ると思います。
chofucity
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莵道稚郎子が平塚市の本拠地を置き関東に東征して来ていますが、兄天皇の仁徳天皇の政令で一国一社八幡宮の制度を定めた際に平塚市には鶴峯八幡宮が入江の河口部左右渡河地点に作られた様です。
それが茅ヶ崎市の鶴峯山八幡宮と、平塚八幡宮(旧社名鶴峯八幡宮)です。
なので上石原若宮八幡宮作られた可能性も有るのかな~?と思います。
そう思う理由は恐らく、そこは多摩川対岸の穴澤天神社と対を成す、渡河地点だったと思からです。
現在も砂州が多いですよね、その地点だけ。
そして石原の地名はつまり、多摩川の氾濫原で川岸だった事を地名に残していますよね。
古墳時代当時は更に川幅が広かった上に狛江の辺りは縄文時代には海の入り込んだ入江の筈なので、延喜式内社はだいたいが縄文時代~古墳時代の遺跡を内包して存在しますから、その辺りは河口部分の少し上流の渡河地点だった可能性が高いと思います。
そう考えると社伝に整合性が有りますよね。
地形と地名と昔の地図みるだけでも調布辺りは古代史に直結してて面白いですね!
chofucity
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面白い地形の神社の情報ありがとうございました。
chofucity
が
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