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どうも、いさみ編集局長です。本日は真面目な歴史のお話をしたいと思います。いまウクライナで悲惨な戦争が続いていますが、日本も77年前は更に悲惨といってよい戦争をしていました。終戦の日といえば8月15日が有名ですが、実はその日以降も緊張が続いていたことはご存じでしょうか?今日はその終戦の日以降の出来事として、調布飛行場が関与した重要な話をしたいと思います。


ポツダム宣言受諾後、終戦連絡の代表団を載せた命がけの"緑十字機"飛行
皆さんご存じの8月15日のポツダム宣言の受諾。昭和天皇が玉音放送にて国民に向けて終戦を宣言し、泣き崩れる日本国民の姿は勉強してご存じかと思うのですが、この玉音放送ですら敗戦を認めようとしない一部の軍部のクーデーター未遂事件があったりと、終戦・敗戦を日本がすぐに受け入れるというのは結構大変だったようなんですね。

その中でも厚木航空隊事件というのは有名で、連合軍への降伏を受け入れられず、厚木航空隊が徹底抗戦を日本中に呼びかけるといった、そういった事件も発生しておりました。

そんな中でも、日本国としてはポツダム宣言を受諾し、これ以上の日本国民の被害を抑えるためにも、連合国側との終戦処理を進める必要がありました。のちの連合国最高司令官のダグラス・マッカーサーより、終戦連絡処理のために、実際に特使を派遣しろとの要求を受けており、日本政府は8月15日以降、まだ日本内では降伏の準備が完全に整っていない中で、マニラへ代表使節団を送る事になりました。

その際に、使節団の飛行機とわかるようにマッカーサーより指定を受けた塗装が「飛行機の全面を白色に塗り、胴体の中央部に大きな緑十字をかけ」とのことだったので、この使節団の飛行機は緑十字機と呼ばれるようになりました。

この緑十字機使節団なのですが、このことだけで映画化できそうなぐらい、危機一髪のストーリーに満ち溢れた使節団となります。

伊江島への決死の飛行
代表使節団はマッカーサーの待つマニラへ向かうわけですが、まず日本側は緑十字機をつかって沖縄の伊江島へ向かうことになります。伊江島からは米軍機に乗り換えるという計画です。

緑十字機は2機で向かったわけですが、この飛行は正に命がけの飛行でした。というのは先にお話しした厚木航空隊が終戦を認められなかったため、終戦協議に向かう使節団の妨害をすべく、この緑十字機を撃墜しようと計画を立てていたからです。

本来は厚木飛行隊を説得し、安全な状態になってから飛行機を飛ばしたいところでしたが、マッカーサーは待ってくれません。厚木飛行隊に撃墜されぬよう緑十字機は囮の飛行機を別ルートで飛ばし、本体の2機は海面スレスレを飛行しながら太平洋上を大回りするという作戦で、なんとか撃墜を免れて伊江島へと向かうことができました。

なんとか、厚木飛行隊の追尾をまいて、伊江島に着陸をしようとした緑十字機なんですが、今度は着陸時にブレーキの役割を果たすフラップが下がらないという故障が発生。なんとかできないか旋回して回復を試みるも回復せず、しまいには地上のアメリカ軍も神風ではないかと不審な動きに警戒態勢を取り始めます。

そこで決死の不時着を試みるわけですが、伊江島の飛行場の際は崖、まさに危険な着陸であったわけですが、名パイロットの腕によってなんとか着陸を成功させます。

マッカーサーのからの重要文章をもった緑十字機が、まさかの燃料切れで・・・
日本側の使節団ですが無事にマニラに到着し、連合国側と交渉。降伏後の進駐スケジュールを取り決めたので、この取り決めた情報を無事に、そして一刻も早く日本に確実に届ける必要があります。

使節団は伊江島に戻り、緑十字機に乗り換えるわけですが、ここでトラブルが発生。2番機が故障して動かなくなってしまったのです。ここら辺、本当に日本側がすでに色々とギリギリの体力しかなかったことが想像できますが、上記の終戦後の取り決めを早く日本の中央政府に伝えなければいけませんので、1号機のみで木更津に向けて出発しました。

で、、、この後、信じられない大トラブルが発生します。燃料切れです。燃料そのものはアメリカ軍に補給してもらったはずなのに燃料が足りない!この燃料トラブルは整備ミスとも、意図的に行われたとも説があるのですが、とにかくも燃料がない。飛行機がこのままだと墜落してしまう。でも、墜落してマッカーサー側の意向を伝えられず、日本側が受け入れ準備ができない状態で、マッカーサーが厚木飛行場に降り立ってしまったら、、、降伏どころじゃなくなってしまいますよね。

そこで機長は急遽、静岡県の鮫島海岸の砂浜に不時着を決意。時は深夜。地上に着陸のためのライトなど一切ありません。幸運なことにほぼ満月であったため、月明かりを頼りに不時着を決行!この海岸の砂浜への不時着は無事に成功!使節団にケガ人無し、文章も無事という奇跡の不時着となりました。

1945年8月21日 使節団は調布飛行場へ無事到着
使節団は海岸に不時着後もホッとしているわけにもいきません。東京になんとしても明日までには帰らなければいけません。ここで運よく地元住民の助けを得る事ができ、トラックにのって浜松飛行場まで行きつくことができます。

この時、普段、一般市民にはそもそもあまり敬礼をしない、日本軍の高級将校が御礼の敬礼をしていたエピソードが残されていて、いかに使節団が切羽詰まっており、そしてそれを地元民が懸命に助けたかが伝わるエピソードですよね。

そして使節団は代替機としてあった四式重爆撃機 飛龍を急遽修理して使用し、1945年8月21日に調布飛行場に無事に着陸し、連合国側の意向を中央政府に無事伝える事ができたのです。

調布飛行場に着陸したのは緑十字機ではありませんでしたが、終戦の重要なカギを握る緑十字機使節団は調布飛行場が飛行機の終着地だったというワケです。

その後は、皆様もよくご存じの通り、日本側が必死に努力してマッカーサーの8月30日の厚木飛行場の着陸、9月2日に戦艦ミズーリにて降伏文章の調印をもって正式に降伏する流れとなりました。

因みに、もしも仮に、使節団が無事に帰還できず、日本の正式な降伏文章の調印が遅れていた場合、日本の北方ではソ連軍がスターリンラインという北海道の半分を占領する計画を立てており、北方領土問題は更に深刻で、大きな悲劇を生んでいた可能性がありました。

歴史とは本当に紙一重の積み重ねなんだなとしみじみ感じるエピソードですね。お話は以上となります。

世界が平和になりますように。