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どうも、いさみ編集局長です。本日は戦争遺跡に関するお話です。


調布飛行場の真横にある掩体壕 大沢1号&2号をみてきた
先日ご紹介しました、近藤勇局長の生家跡の近くには三鷹市となるのですが戦争遺跡が存在します。掩体壕といいまして、戦闘機を敵機からかくして防御し守るための施設です。

こちらが掩体壕1号です。
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分厚いコンクリートの屋根で、中に入っている戦闘機を守るという仕組みです。イメージがわきやすいように戦闘機の絵がかいてありますね。
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因みに格納されていた戦闘機飛燕1型の模型が、掩体壕の真横にありました。
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飛燕に関して看板に説明がのっておりました。
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ドイツのダイムラーベンツの技術!あーベンツか!!という個人的には新しい発見。

首都防衛のために配備された戦闘機のようですね。因みに調布も一部空襲の被害にあっておりまして、私ももう何年前だったか忘れましたが、国領駅前で不発弾騒ぎがあったことを覚えています。

からの、ちゃんと調べたところ不発弾騒ぎは2008年だったそうです。ということはいまから17年前だから戦後63年目の不発弾騒ぎってことですね。

日本はいまとても平和ですのでとてもありがたい話ではあるのですが、今からたった80年前に戦争が終わり、そしてたった17年前に爆弾騒ぎが発生しているんですね。本当に色々と考えさせられます。

からの、掩体壕の話にもどしますが、この掩体壕の横には三鷹側にもう1つ掩体壕がありまして、大沢2号といいます。先ほどの1号からは少し北側に存在します。
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掩体壕は府中側にもあと2つあるそうですね。今度また見に行ってみたいと思います。

私の祖父は2人とも関東軍として中国の満州にいっておりまして、祖父からは戦争の体験記などを少年時代に聞いて過ごしたのですが、祖父は既に他界しており、おそらく兵士として戦場で闘ったほとんどの方は高齢で亡くなられているケースが多いと思っています。

なので、母方の祖父の戦争体験記をここに記録しておきますと、祖父は満州国の最前線で斥候が役割。階級は少尉。慶応ボーイからの陸軍士官学校。戦争が激化進むにつれて将校も人手不足となり、見習い少尉レベルで少尉になったと言ってた記憶があります。

祖父は戦争は行けば生きて帰れないと思って戦地へ出向いたそうです。勝つ負ける関係なく生きて帰れないと。

祖父の勤務地はソ連との国境の最前線。川の対岸にあるソ連軍の動向を見守る役割だったそうです。当時ソ連は日本とは不可侵条約を結んでいる状態でした。ただ、祖父が連日国境を監視しているとソ連軍がどんどん増強されていきます。祖父は大本営へソ連が軍増強につき、かならず攻めてくるはずだと上申します。何度もなんども上伸します。ただ、後にNHKの番組でしりましたが日本の大本営は本気で受け取らず取り合わなかったようです。起きてはならないことは起こらないという、戦争のさなかで冷静に判断をしなければいけない作戦決定機関が現実逃避していたようです。

祖父は対岸に集結するソ連の戦車をみて国力の差を強く感じます。日本はの戦車はチハ車というのですが薄い鉄板で装甲された戦車しかおらず、殴ったらへこむし、銃でも貫通しそうだと祖父はいっていました。それがどうでしょうソ連の戦車はみるからにデカく、装甲も厚く、こんなのに攻められたら国境警備隊はひとたまりもないと思ったようです。

国境最前線の祖父にとっては運命の日がせまります。ただ、ここがまた生き残った人間のエピソードなのですが、ソ連が不可侵を破る少し前だったと言います。所属する師団長が、所在する場所を移動するという話がでたらしく、なぜか最前線の祖父を連れていくという話になったんだそうです。祖父は、師団長も慶応ボーイだったので、きっと大学の後輩ということで声がかかったのではないかとの事です。いまでもそうだと思いますが、大学の絆って当時からも大切だったようで、ここぞで人生役に立った典型例と思われます。(より良い大学に入っとくと、良い事がある例ですね)

そして、ソ連侵攻。祖父がいた前線基地は全滅。そうです全滅です。危機一髪ですね。因みに父方の祖父も塹壕で銃をうってたんだけど、隣に立っていた戦友はみな死んだといってました。それくらい、それくらい生き延びた人は危機一髪を乗り越えてるんだなと。両祖父には感謝です。

祖父は結果的にソ連軍の捕虜となりましてシベリアに抑留される流れとなります。ただ、斥候という役割がいけなかった。祖父は捕虜になった後に拷問を受けます。なぜかというと、ソ連軍兵士からすると斥候とスパイの意味が伝わらなかったそうでして、スパイなら銃殺刑。俺スパイじゃなくて斥候なんだといっても伝わりません。拷問の末に拳銃が突き付けられます。祖父はもう終わりかと思ったようなのですが、別の兵士が制止し話し合いの結果拷問は終わったんだそうです。そんなドラマのようなことがあるものなのですねえと。

その後祖父は極寒のシベリアで強制労働を体験し、後に体調を崩して死にかけたものの、たまたま入院した病院のソ連人の看護婦さんがとても優しい人たちで一命をとりとめて日本に帰ってきたようです。ソ連の看護婦さんたちには祖父は心から感謝していました。

というのが母方の祖父の戦争体験記でありました。生き残ってるので運はいいのですが、死線を乗り越えてギリギリ生き残っているパターンですね。

今も戦争が世界で続いていますし、戦争の悲惨さは情報が出回っている現代なのでしっかり把握されていらっしゃる方がほとんどとは思いますが、祖父が孫へ伝えてくれた情報を戦争の悲惨さを伝える一助となるために書き残させていただきました。

戦争で犠牲になった全ての方に哀悼の意を表しますと共に、戦後の苦しいなかで経済を再生し子孫を繋いでくださった両祖父母と先輩方に感謝いたします。
戦後80年が、これから100年、200年と未来永劫つづくことを祈ります。

また、本日は太平洋戦争における、沖縄戦終結の日(日本軍の組織的な戦闘が集結した日)である6月23日です。もしも、可能であればでかまいません。私からのお願いなんですが、もしも仮にまだ予約をしていなくて負担にならない場合に、南の島への海外旅行を悩まれている場合、是非、沖縄も検討いただけると嬉しいなと思っています。
沖縄県の皆さんは、同じ日本人である皆さんが遊びにきてくれることを待っていますので。何卒ご検討をよろしくお願いいたします。

↑北谷町に行かれる場合は、是非こちらのローカルメディアをみていただけると魅力たっぷりですので参考にしてくださいませ。

掩体壕 大沢1号
〒181-0015 東京都三鷹市大沢6-11-20

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